第11話 赤、白、紫、そして緑
この街は、猫が多いらしい。
至る所、とは流石に言わないが、よく猫の姿を見つける。それは今日という日も同じだった。
街外れのスラムの外、外壁が壊れた場所からすぐの森の入口。
そこにある樹の上で一匹の猫が枝から降りられなくなって丸まっていた。
「じっとしててね…………」
そう口に出しながら樹の幹に手を掛け、はえっちらおっちらと見ている方がハラハラしそうな様子で樹を登っていく。
だがしかし、今この場に以外の者はいない。強いてあげるとすれば樹の上の猫だけだ。その猫ですらの様子を見てはいないだろう。
つまり、危ないと止める者は誰もいない。
何とかごそごそと樹に登り終えると、休む間もなく今度は枝に手を添えて、少しずつ猫に近づいていく。
「怖くない、怖くない、怖くない……………………」
自分に言い聞かせるように繰り返し呟きながら、少しずつ距離を縮め、猫に右手を伸ばして引き寄せる。暴れたりしないだろうかと不安になったがそれもなく、猫はの腕に収まった。
ナー、と一声鳴いた猫はどうやらの腕の中で安心したようで、ゴロゴロと喉を鳴らし元気そうな姿を見せてくれた。
それにほっと一息吐いたところで、さて次はどう降りようかと考えなしに登ったことを後悔し始める。
足下は雑草が生えた地面。運動神経のいい人なら猫を抱えたまま飛び降りてもなんのことはない。悪くても尻餅をついたりして多少擦り傷や打ち身は作るが、大した怪我もなく降りれる筈である。
だが如何せん、実際と見た目は違うものだ。地面から足までの距離と目線から地面までの距離は違う。恐怖心が勝るのも無理はない。
眼下に広がる光景に溜息を吐きつつ、枝の上に座り込む。バランスは何とか保てているらしく、不用意に動こうとしなければ落ちる心配は当分無いだろう。
スラムの近く、街の外壁の外という条件なので、人通りというものはもちろんない。誰かにここへ行くと言ってきたわけでもない。戻る時間というものも決まってはいない。
さてどうやって降りようか、と首を捻り考え始めたその時、
「おい」
急に足下から声がした。
「ひゃっ」
驚きと同時、枝に添えていた右手が滑った。そしてそのままバランスを崩し、為す術もなく腕の中の猫と共に落下する。
追記しておこう。
下手に落ちれば打ち身や擦り傷だけではなく、切り傷や、悪くしたら骨にヒビが入るかもしれない高さである。骨にヒビが入る場合はそうそうないと思いたいが。
どさり、と落ちた衝撃は思っていたほどのものではなく、まるで地面と自分の間に緩衝剤が入ってしまったかのようなものだった。
恐らく先程声を掛けてきた人の上に落ちてしまったのだろう、とすぐさま思い至ると、身体を起こして謝ろうとする。
そこで目に飛び込んで来たのは、白と紅の二色。紅い色は鎧か何からしく硬い。よく見れば黒色もある。
色合いに思い当たる人物が浮かび上がり、ざぁっ、と血の気が引く。
「……いつまで乗ってるつもりだ」
「あ、ご、ごめんなさい! 今降ります!」
慌てて白と紅――――バノッサの上から降りる。
バノッサから少し距離を取るとは猫を脇に降ろし、土下座をする。
「ごめんなさい、本当に! いきなり声を掛けられてびっくりしちゃって!」
「おい、何やってるんだ手前ェ……」
「何、って。……土下座。一番謝らなきゃいけないときに使うもの」
バノッサの怪訝そうな顔を見上げつつ説明する。他にも謝罪の仕方はあるのだが、今の日本ではこれが一番重い謝罪の仕方だろう。一般人には。
流石に切腹はしたくない。命は惜しい。
「…………じゃあこれで」
反応のなさにすぐさまそこを去ろうとしたは、しかしそれを実行に移すことが出来なかった。
立ち上がり、歩き出そうとしたら右腕を引かれて踏鞴を踏んでしまったのだ。
もちろん、そうさせた相手はこの場に一人しかいない。紅と白の青年、バノッサ。
彼も立ち上がると、身長差から見下ろし、を威圧してきた。実際は威圧していないのかもしれないが、それは受け手次第だろう。
「……何か?」
「ちょうどいい。手前ェ、俺様に召喚術を、」
「無理ですごめんなさい」
「あ゛? 俺様には教えられないってのか?」
「そうじゃなくて」
少し困ったようには視線を宙に彷徨わせる。
暫く沈黙したあと、意を決したように口を開いたから出てきた言葉は、バノッサにとっては目を見張るものだった。
「私、誓約破棄してしまうんです」
誓約というものは、誓約した人間しか破棄をすることが出来ない。無理に破棄しようとすれば、召喚中の召喚獣の存在そのものが危なくなる。そういうものだ。
だがは誓約破棄を意識・無意識関係なく行ってしまうという。
「例えば……」
澄んだ紫色の石を取り出す。そこにはリプシーという名前が誓約の証として刻まれていた。
見ていてくださいね、と前置きしてからは魔力を掻き集め、集中していく。いつの間にか、の瞳の色が薄い緑色に変化していた。
風がぴたりと止まる。なのに葉擦れの音は鳴りやむ気配を見せない。ざわざわとざわめきながらとバノッサを包み込む。
魔力がサモナイト石へと圧縮されていく。圧縮され、ある濃度に達した瞬間。
りぃん。
鈴の音色に似た澄んだ音が辺りに響き、先程までの魔力が嘘のように消え去った。そしての手には透明度を失った未誓約のサモナイト石。
呆然と事の成り行きを見守っていたバノッサはサモナイト石を凝視したまま口を開いた。
「……どういう原理だ」
「私にもさっぱり」
ゆるゆると首を振るに視線を移し、もう一度サモナイト石に視線を移す。の瞳の色は元に戻っていた。
種も仕掛けもないことを確かめようとバノッサは手を伸ばす。
その手がサモナイト石に触れた瞬間、葉擦れの音が止まる。それと同時に、突風と言ってもいいほどの風が吹き抜けた。
反射的にもバノッサも目を閉じ、瞳を護ろうとする。葉擦れの音と強い風の音が混ざり、言葉のようなものが聞こえた気がした。
風が止むのを待ってから目を開け、は服に付いたゴミを叩き落とす。
「一体何だったんでしょう……あ」
ふ、と思い出したのはフラットアジトにいる召喚師達のこと。
街のすぐ近く、と言うか殆ど隣なこの場所で魔力を使い、召喚術を失敗とはいえ使おうとしたのはきっと気付いているだろう。放っておくと何かあったのか、とここに来るか、あとでキツイお説教を喰らうかもしれない。
考えついた未来に少し眉を顰めながらぺこりと頭を下げ、バノッサに背を向け走り去る。
一人残されたバノッサは、落ちていた未誓約だったはずのサモナイト石を拾い上げた。
「…………チッ、やっぱりイカサマだったか」
普通の誓約済みサモナイト石よりも透明度が高く感じられるそこには、蒼く浮かび上がるリプシーという文字がしっかりと刻み込まれていた。