それはとある昼下がりのこと。
「…………………………………………そうだ、並盛へ行こう」
がたん、と椅子を鳴らしながら立ち上がった少女は言い放つ。
授業中だった教室は静まり返っていたため、少女の言葉はよく響いた。
黒板にチョークで文字を書き込んでいた教師が振り返り、立ち上がっている少女へ呆れたように苦笑を浮かべながら言葉を投げかける。
「今は授業中だぞ、。またいつもの発作か?」
クラスの殆どの生徒が少女を振り返り、生温かな目を向けている。少女はそれに気付いていないかのように頭を抱え、天井を仰ぎ見る。
「並盛、それは刺激ある日常! 並盛、それは萌えのある日常! 並盛、それは冒険のある日常! なみも、」
更に続けようとした少女の後頭部を、白い塊が襲う。
それは所謂ハリセンというものだった。たとえ紙で出来ているはずのそれが普通なら有り得ないような「ズゴッ」なる鈍い音を立てていても、形状と材質としては間違いなくハリセンそのものである。
少女をハリセンで襲ったのは、彼女の隣に座っていた一人の女子生徒だった。
「センセ、授業続けてください。発作止まったんで」
止まった、というよりは無理矢理止めたのだが。
クラスの生徒も授業担当教師もさしてハリセンで沈んだ少女を気に止めず、授業を再開する。
何故ならそれがこのクラスの日常風景だからである。
そんな日常風景の授業が終わると同時、少女は漸く目を覚ます。
「あ、目覚めたんだ」
「なーみーもーりー!」
「…………訂正、頭はまだ寝てるみたいだ」
少女が目覚めたことに気付いた一人の男子生徒が声を上げるが、次の瞬間少女が叫んだ言葉に呆れきった視線を寄越す。
それを気に止めず、少女は更に暴走するかのように椅子の上に登り――――――――落とされた。
少女を落としたのは、授業中も少女を止めた隣の女子生徒。椅子を思い切りよく横にずらしたことでバランスを崩させ、落としたのである。
「ごふぅっ」
落ちるときに机の角で顎を打ち、少女はまるで吐血したかのような擬音を口から漏らす。
そんな少女を冷めた目で見下ろしながら、女子生徒は言い放った。
「いい加減にしろ、。妄想は妄想だからこそ妄想なんだ」
「いや意味解らないし!?」
がばり、とと呼ばれた少女は立ち上がりつつ女子生徒に裏手ツッコミを決める。
そんなをフン、と鼻で一笑し、女子生徒はいつの間にかハリセンを片手に持ちながら問い掛ける。
「第一、どうやって漫画の中の世界へ行くと言うんだ」
「そりゃあ努力と気合いと根性で!」
「あとは妄想の力?」
「よっくわかってんじゃん、!」
女子生徒に元気よく返したに付け足すよう、が目覚めて最初に声を掛けた男子生徒が言う。それに頷く。
容赦なく女子生徒はとにハリセンを落とした。には思い切り、には軽く、と言う随分と依怙贔屓したような力の差で。
共に頭を抑えて床に座り込む二人。どちらも瞳に涙を浮かべ、痛みを堪えている。
「ひ、酷いよ、ちゃん。僕、ちゃんが言いそうなこと言っただけなのに」
「のボケを助長させるな、。ここは突っ込むべき所だ」
ハリセンを持った女子生徒に抗議の声をが上げるが、と呼ばれた彼女はキッパリと告げる。
ちなみには未だに痛みで口をきけないらしい。
「ー、ー、ついでにー。次、移動教室だよー」
そんな三人に、クラスメイトから声が掛かった。溜息を吐くと、は傍らで蹲ったままのの襟首を掴み、引き上げる。
はよりも十センチ以上背が高い。お陰で襟首を持って同じ高さまで吊り上げられると、制服の前襟で首が絞まる。
「ぐぴゃっ!」
「アホ牛の真似はいい。とっとと移動するぞ」
ぺいっ、との身体をより更に五センチ高いに押しつけ、歩き出す。
それに苦笑しながらもの身体を押しながらも後から歩き出した。自然、も歩くことになる。
「あーあ、ホントに異世界トリップしないかなー。逆トリでもいいけど、やっぱ私が行きたいなー」
歩きながらまた語り出したはに押され、次の教室へ向かうクラスメイトの集団に追いついた。
とを抜いたクラスメイト九人全員がの方を振り返る。
その中の一人が口を開いた。
「ほんっと懲りないよな、。異世界トリップなんて無理だろ」
「にゃにおう。夢はでっかく持たないと!」
「そんな夢いらないだろー」
反論するに笑いながら応対する。その態度にむぅ、と膨れたは、てててっ、と走って集団の先頭になる。
「いいんだよ、私の夢はこれで。今一番強い願いだもん」
ぐ、と握り拳を作り、は力説してみせる。
クラスメイトは全員、呆れたような、それでいて安堵したような笑いを零す。
「それでこそよね」
「へへっ」
つられたようにも笑うと、階下にある教室のために降りていた階段の踊り場でふと立ち止まった。自然、他のクラスメイトもそこで立ち止まることになる。
「どうしたの? 」
「柊…………あれ」
柊と呼ばれた女子生徒はの指さす先、下へと続く階段の途中にある揺らぎに気付き眉を顰める。他のクラスメイトも同様の反応を見せた。
も同じように眉を顰めながら、その揺らぎから視線を逸らさずに呟く。
「蜃気楼……?」
「そんな訳あるか」
途端、のハリセンが飛んでくる。後頭部にそれを受け、踏鞴を踏みながらもは何とか踊り場に踏みとどまった。
「どう見てもあれは蜃気楼には見えないだろうが。見ろ、揺らぎの向こう側の景色が薄れて見える」
がハリセンで指したのは揺らぎの向こう。本来ならはっきりと階段や次の階が見えるはずのそこは、うっすらと、まるで靄か霧が掛かったように曖昧な様子を見せている。
明らかに普通の様子ではなかった。
「あ、もしかして異世界トリップの前兆じゃない?」
何となく、と言った風に言った柊に、それだ、と指を鳴らしてが喜ぶ。
「私の願いが神に通じたのだね!」
「通じなくてよかったがな、一生」
「んもう、のい・け・ず」
「ウザイキモイ」
言い放つと同時、のハリセンがの側頭部を殴打する。の身体は勢い余って壁に激突した。
何とかぶつかった衝撃から立ち直ると、は階段の途中にある揺らぎを見つめ、それからクラスメイトに向き直り敬礼をする。
「それでは、リボーンの世界に突入してきます!」
「ちょっとまった!」
揺らぎの中に行く気が漲るの肩を掴み、女子生徒の一人がの行動を阻止しようとする。
「何なんだよう、久子」
「あんたあれにホントに入る気? 正気の沙汰じゃないわよ!」
久子と呼ばれた女子生徒は必死になっての肩を掴む。
「あれが何だと思ってるの!」
「電○イナー!」
「電車じゃない!」
「ど○でもドア?」
「扉じゃない!」
「通り抜け○ープ!」
「どこを通り抜けるつもり!」
終いには肩を掴んだまま前後に揺すり始めた。
そんな久子を誰も止めない。それどころか援軍せんとばかりにがに語りかけた。
「。あれがどこに繋がっているか定かじゃないだろう」
「愛があれば大丈夫! 必ずリボーンの世界に行けるわ!」
言い放ったの顔にハリセンを叩き付け、はにとってもっとも嫌だろう言葉を口にする。
「毛狩りと鼻毛の世界に繋がっているかもしれないぞ?」
「それは嫌」
キッパリと告げると、途端には大人しくなる。それに安堵し、久子も肩を掴んでいた手を離した。
そんな矢先。
「ねえ、気のせいかな……?」
ぽつり、とが呟いた。
「揺らぎ、どんどん近付いてきてない………………?」
確実に、達の方へと近付いてきていた。
驚きで目を見開くと、すぐに全員顔を見合わせ、頷きあって階上へと駆け足で上る。
先程までいた階に戻ると、なるべく階段から離れようと廊下を今度は恐る恐ると言った様子で歩き始めた。また同じように揺らぎが無いとも限らない所為である。
そして、男子生徒の一人が窓の外へと何の気無しに視線をやり、慌てて視線を戻し、足を止めた。
「どうした、浩太」
それに気付いたが足を止め、振り返る。
全員が浩太と呼ばれた男子生徒へ視線を向けると、彼は俯きながらぽつりと呟いた。
「……ドラマであったよな? 教師と生徒が学校ごと、未来へ移動しちまうって話」
「あったけど……どうしたの?」
柊に聞かれ、浩太は窓の外へと視線を再度向ける。
窓の外では、学校の敷地と街の境目に、先程階段で見たような揺らぎがあった。ただし、今度は敷地の方が翳んで見え、街並みは変わらない視界を保たれている。
浩太が言いたいことを全員が理解し、呆然と立ち竦んだ。
そんな彼等を嘲笑うように揺らぎが近付き、全員を飲み込み廊下を次々に侵食していき――――――――瞬間、震度六ほどの強烈な揺れが校舎を襲ったかと思うと、揺らぎも翳みも消え、普段と同じ校内の様子が広がっていた。
思わず全員が座り込んでいたが、各々何とか立ち上がるともう一度視線を窓の外へと向ける。
代わり映えのない街並みがそこには存在していた。
「…………の妄想にあてられたのかな」
「ちょ、サン!? 私は電波発信塔ですか!?」
「似たようなものだろうが」
スッパリと言い切るに対し、床にしゃがみ込んでのの字を書き始める。それを鬱陶しい、とハリセンで叩き、もう一度景色へ視線を向け何かに気付いたかのようには眉を寄せた。
「本当に、ここは私達の街か?」
「え?」
の言葉にクラスメイト全員が疑問の声を上げる。
当然だ、代わり映えのない街並みが窓の外には存在している。
「……普通、学校の周りは民家だらけであまり代わり映えなんてしないはずだ」
それはつまり。
「…………民家のある何処かへ、学校ごと移動した可能性がある、と?」
男子生徒の一人が呟いた。それに頷く。
つぃ、と一カ所を指さし、彼女は口を開いた。
「私の記憶では、あそこに朱色の屋根の家があった」
全員の視線がが指さした場所へと向く。もちろんも向け。
そして首肯した。
「そうだね、結構派手だったから印象的だった。今朝ももちろん朱色だったよ?」
けれど、今そこに存在している民家の屋根の色は、周りと同じ黒い瓦色。よくよく見れば屋根の形も違うかもしれない。
「白夜、どう見る?」
先程呟いた男子生徒には尋ねた。
顎に手を当て暫く考えていた白夜は徐に口を開き、
「僕の考えで、」
「、これはお前の妄想が伝染して起きたことかっ!?」
走ってきた教師の声に遮られた。
「センセ、廊下を走るなとはあなた方の言葉だろうが」
「いやだなぁ、先生。人の妄想を病原菌みたいに」
暢気とも取れるとの言葉に肩を落としつつ、教師はゆるゆると首を振る。
「そう言ってる事態じゃないんだ、高山。一番原因かもしれないことを言ってみただけだ、」
それから傍らにいた白夜に視線を向け、教師は呻くように口を開いた。
「……谷崎、お前の意見を聞かせてくれ」
教師の言葉に頷くと、白夜は改めて自分の考えを話すべく口を開く。
「僕の考えでは、先程の揺らぎは空間が何らかの影響を受けて歪んだ結果生み出されたものだと思います。その範囲は恐らく、この学校の敷地内のみ。窓から見えた街並みとの揺らぎの差がそれを示している」
一度言葉を切ると、彼は重苦しく言葉を吐き出した。
「…………空間が歪んだ、と言うことは、多くの場合歪んだものが元に戻ろうとする力が働くと言うこと。それが先程の地震。そしてその際この学校は……」
その先は、その場にいる誰もが想像し、
「異世界を渡った可能性が高いんだね!」
が紡いだ。
その明るく何とも言えない嬉しそうな声音に、を始めとするその場にいた全員が苦笑を浮かべる。けれどそんな苦笑するクラスメイトと教師を気に止めず、は身を乗り出すようにして窓から外を見た。
「んー、よくわっかんないなー」
描かれていた場所を見つけてここが並盛だろう事を証明したいのだろうの言動に、が笑いを堪えて肩を震わせる。
それをちらり、と見て溜息を吐くと、はを止めようと腕を伸ばす。が、あと少し、と言うところでするり、とその身体はの腕を擦り抜けた。そして近場の教室に入る。
開けた教室が化学室だったために、廊下に独特の薬品臭が漂ってくる。それも気に止めることなくは窓に向かい、校庭へ視線を向けた。
「何をしているんだ、」
溜息混じりにが問い掛けた言葉に、顔を向けることなくは返す。
「並盛の証明を探してるー」
の言葉に、やっぱり、と教師すら溜息を吐いた。
クラスメイト達はお互いに顔を見合わせ肩を竦めると、の後に続いて化学室に入っていく。そして同じように窓の外へと視線を向けた。
「あ」
最初に気付いたのは、やはりと言うべきだろう、だった。
声を上げてすぐ、キラキラと目を輝かせて校門近くを見つめる。クラスメイト達もそんなの様子につられ、視線を校門の方へ向けた。だがかなりの広さがある校庭のため、校門に何があるのか視認できる者は少ない。
「神流、何が見えたんだ?」
視線を向けたはいいが見えなかったのか、浩太が隣にいたに声を掛ける。全員の視線がに向いた。声を掛けられたはふにゃりとした笑みを浮かべ、嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「風紀委員長」
途端、その場の空気が凍った。
空気だけではない。教師もクラスメイト達もに視線をやった状態で動きを止め、一言も発しない。
そんなクラスメイト達を気にする様子もなく、は校門を見つめ続けている。
漸く我に返った教師が、どこからともなく取り出した双眼鏡で校門を見る。確かにそこには黒い人影。倍率を上げれば、学ランを着た少年が立っているのが確認できた。
「…………高山」
「っ、はい」
教師に声を掛けられ、も我に返る。それにつられ、何人かが同じように我に返った。
「全校を体育館へと収集してくれ」
「解りました」
「、僕も行きます!」
教師の言葉に踵を返して走り出したの後を白夜が追う。二人が化学室から出て行くのを見送り、教師が残った全員に声を掛けた。
「さぁ、体育館へ行くぞ」
言って足早に歩を進める教師。その後に続いて歩き出したクラスメイト達に一拍遅れながら付いていくは、酷く儚げな微笑をその顔に浮かべた。
スピーカーから、全校への収集の合図が流れていた。